ナポレオンとドイツ侵攻について

ナポレオンという人物はヨーロッパのほとんどを征服し、後に皇帝にまで上り詰めた人物です。

フランス革命の後ナポレオン戦争が始まり、ナポレオンはドイツ侵攻などを行っていきました。

それではナポレオンはどのようにドイツ侵攻を行い、ドイツはどのような状態だったのでしょうか。

ここではナポレオンとドイツについて解説します。

ナポレオン戦争について

1789年、フランス革命によって人権宣言が出されました。

フランス革命はもともと市民たちが武力を使って絶対王政を倒した市民革命です。

その時フランス以外のヨーロッパの国々はほとんどが絶対王政でした。

そんな中フランスで国王が市民によって殺害されるという事態が起こり、他のヨーロッパ諸国はフランスに対して不安を抱くようになったのです。

フランスの共和制は他の国々には理解されないものであり、そんな中他の国々はフランスを倒すために戦争を始めました。

その間に力を持ち始め、ナポレオン戦争を引き起こしたのがこのナポレオンという人物だったのです。

ちなみにナポレオン戦争勃発時の表向きの戦争の理由は絶対王政によって虐げられている人々を救い出すというものでした。

ナポレオンのドイツ侵攻

ドイツ侵攻といっても、この頃ドイツという国が存在していたわけではありません。

今のドイツ、オーストリア、チェコ、そしてイタリア北部を中心として神聖ローマ帝国という国があったのです。

しかしこの神聖ローマ帝国はナポレオンによって解体に追い込められることになりました。

もともとヨーロッパの諸外国はフランスに対し武力行使は控えていました。

しかし神聖ローマ帝国とプロイセンがフランスに対してピルニッツ宣言を出し、これに対してフランス革命戦争が始まったのです。

ナポレオンがロシア皇帝や神聖ローマ皇帝と異なり、古代ローマ帝国と全く関連性を持たないフランス皇帝と自らを称した際、ドイツ皇帝であったフランツ2世はオーストリア皇帝をも名乗るようになりました。

第3回対仏大同盟

1805年、神聖ローマ帝国、ロシア、イギリス、そしていくつかの国々が第3回対仏大同盟を結成しました。

ナポレオンがイタリア遠征やドイツ侵攻を行い、それがオーストリアとロシアを刺激し、それらの国々がイギリスとともにフランスに敵対心を抱くようになったのです。

アウステルリッツの戦いにおいては第3回対仏大同盟を解消させ、フランスは大きな勝利を収めました。

オーストリアはイタリアとバイエルンをフランスに譲り渡し、ドイツがナポレオンの同盟国に割譲され、さらにフランスに対して40,000,000フランの賠償金を支払うことになったのです。

ライン同盟の結成が決まり、これによって神聖ローマ帝国が消滅しました。

ナポレオンのドイツ侵攻が成果を出したのです。

まとめ

いかがでしょうか。

この頃はドイツではなく神聖ローマ帝国という名前だったため、そもそもややこしいと思っている人もいるかもしれませんね。

ドイツ侵攻などを行ったナポレオンは無敵状態で力を伸ばしていったのです。

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