ナポレオンが制定したナポレオン憲法と呼ばれるものには2種類あります。
まず、執政政府が作り上げた1799年の共和暦8年憲法、そしてフランス第一帝政で作り上げられた1804年の共和歴12年憲法というものがあるのです。
ここではナポレオン憲法と呼ばれるこの2つの憲法について紹介します。
共和歴8年憲法
このナポレオン憲法は1799年、共和暦8年に制定されたフランスの憲法です。
この憲法ではブリュメール18日のクーデターでナポレオンが全権を握り、フランス革命を終結させたということ、そしてそのナポレオンを第一統領とする統領政府を築きあげるという枠組みが制定されたのです。
もともと共和暦3年憲法を規定していた総裁政府がブリュメール18日のクーデターによって倒されました。
その後暫定政府が発足し、その政府がこのナポレオン憲法、共和暦8年憲法を定めたのです。
これによってナポレオンに権力が集中することとなり、人権宣言は重視されませんでした。
共和暦12年憲法
その後、1804年に共和暦12年憲法が出来上がりました。
これは第一訂正を樹立した憲法であり、142条から成り立っています。
この憲法ではナポレオンが人民に委託されて皇帝になったということ、そして王権神授説による神の恩寵があったことなどが規定されました。
ここではナポレオンが国王ではなく肯定という称号を選んだということが描かれています。
皇帝はアウグストゥスなどに倣ったものであり、無限性というものを有しているため、ナポレオンにとっては魅力的だったのです。
そして権力の中身については全く触れておらず、ナポレオンを皇帝に示している内容になっています。
つまり、ナポレオンの人生を考えるとこの共和暦12年憲法こそ、ナポレオン憲法と言えるかもしれません。
皇帝について
ナポレオンがついた皇帝の地位は、直系の子孫がこれを継承すると定められました。
しかし、アンシャンレジーム以降の長子相続制になるため、女性はそこから覗かれます。
さらにもしも継承者がいない場合はナポレオンが兄弟の子孫を養子に迎えることが可能となり、そこから継承者を選ぶことができました。
ただしこの養子となる人物は養子縁組後に誕生した嫡出子に継承順位を譲らなければいけないという決まりがあったのです。
この養子縁組を認めたという事はこの時代に非常に革新的でした。
これはナポレオンにフランス帝国の継承者を指名する権限を与えたということになるのです。
まとめ
いかがでしょうか。
特に共和暦12年憲法は皇帝としてのナポレオンの地位を確立した非常に大きな憲法だったといえます。
このようにしてフランスは何度もその憲法を変更し続けてきたのです。