ナポレオンがローマ帝国を滅ぼした経緯について

ナポレオンと言えばフランスの人物です。

ローマ帝国とは関係がないと思う人もいるかもしれませんね。

しかし、ナポレオンによってローマ帝国は最終的に消滅したといっても過言ではありません。

それならばナポレオンは一体何をしたのでしょうか。

ここではナポレオンとローマ帝国の関係について解説します。

フランス革命の勃発

フランス革命と聞くと、どうしてもルイ16世やマリーアントワネットが処刑された革命だと考える人もいるかもしれません。

しかし、これはフランスの平民たちが立ち上がった革命であり、これによって王室が滅びました。

ルイ16世を処刑した後のフランスは無敵な状態であり、このフランスを脅威に感じたヨーロッパの国々は対仏大同盟というものを形成するに至ったのです。

もともとオーストリアやプロイセンがローマ帝国を形成しており、これらの国々は最初はフランスに対して有利な状態でした。

しかし1792年のヴァルミーの戦いによってフランスが勝利したことにより、フランスの力が増していくのです。

ローマ帝国の危機

フランス革命が進み、ジャコバン独裁が出来上がったことによって国民軍が形成されました。

そんなフランスにナポレオンが登場し、イタリア遠征を始め、様々な戦いで勝利を収めていったのです。

ナポレオン戦争がヨーロッパ全体に展開し、オーストリア軍などローマ帝国は危機に陥ってしまいました。

そしてナポレオンが皇帝となり、1805年にアウステルリッツの戦いによってロシアに勝利し、ナポレオンはライン同盟を結成したのです。

これによってドイツ南西部の16の諸邦がローマ帝国を離れてしまい、ウィーンにいたハプスブルク家のフランツ2世はローマ帝国皇帝を対し、これによってローマ帝国は消滅してしまいました。

ウェストファリア条約

1648年のウェストファリア条約により、もともとローマ帝国は実質的な国家機能を失っていたと言われています。

このウェストファリア条約はローマ帝国の死亡診断書とも呼ばれていますが、これによってプロイセンやオーストリア、バイエルンなどの国々に分裂していたのです。

しかしハプスブルク家はまだまだ皇帝の地位を維持しており、フランス2世はローマ帝国の皇帝だけではなく、オーストリア帝国の皇帝としても名前を馳せていました。

宰相メッテルニヒに助けられながら領土を維持していたのです。

まとめ

いかがでしょうか。

このときのローマ帝国というのは今のイタリアではなく、神聖ローマ帝国を指します。

ナポレオンによってこのローマ帝国は消滅への一途を辿ることになったのです。

そしてナポレオンはさらに力を広げていきました。

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