ナポレオンは輝かしい栄光を持っていたにもかかわらず、最終的には流刑となりました。
それならば、ナポレオンはどの島に流刑となったのでしょうか。
ここではナポレオンが流刑になった経緯とともに、その島について紹介します。
ナポレオンが流刑になった経緯
1814年4月、フォンテーヌブロー条約が結ばれた後にエルバ島に追放されたナポレオンは翌年エルバ島を抜け出し、復位を成し遂げました。
その後大陸軍を立ち上げ、ワーテルローの戦いに臨みます。
しかし、その戦いで敗れ、ナポレオンは再度退位に追い込まれることになりました。
実際には95日間だったと言われますが、この出来事を100日天下と呼びます。
その後ナポレオンはアメリカへ亡命も考えましたが港が封鎖されていたことによってうまくいかず、イギリスの軍艦に投降したとされています。
セントヘレナ島への流刑
ナポレオンはイギリスに亡命することも考えました。
しかしイギリスがナポレオンの受け入れを拒否したことにより、ナポレオンの保護を目的としてセントヘレナ島に流刑とし、幽閉することに決めたのです。
1815年10月から、1821年5月に死亡するまでセントヘレナ島の中央にあるロングウッドハウスで生活をしました。
流刑と言われると処罰の1つのように感じますが、実際には裁判や条約に基づいていない不法拘留であったと考えられます。
セントヘレナ島での生活
セントヘレナ島は高温多湿の気候であり、ナポレオンにとっては非常に辛い環境でした。
常時監視され、乗馬での散歩も制限され、極めて監禁生活に近いものだったとされています。
また島の総督ハドソンは無礼な振る舞いを働き、ナポレオンのことをボナパルト将軍と呼んだほか、腐ったワインを振る舞い、ナポレオンを馬鹿にしたとされています。
さらにナポレオンの体調が悪化している一方でナポレオンの主治医を本国に戻してしまい、ナポレオンは1821年5月5日に命を落とすことになったのです。
解剖の結果によればナポレオンの胃からは腫瘍と癌が見つかったと言われています。
命を落とす直前にナポレオンが「自分はイギリスに暗殺された」と述べたことや、彼の死後、本国に遺体を送り返すために掘り返した時、遺体が死亡直後とほとんど変わっていなかったことなどからヒ素による暗殺事件の可能性も指摘されていました。
しかしこの可能性は今でもはっきりとは否定されていません。
まとめ
いかがでしょうか。
フランスを勝利に導き、対仏大同盟を打破し、そして皇帝にまで上り詰めたナポレオンはその活躍からは全く想像もつかないような最後を迎えました。
今現在、ナポレオンはルイ14世の時代に建てられた軍事病院の教会で眠っています。