ナポレオンが結成したライン同盟について

世界史の中でライン同盟というものは非常に有名ですよね。

このライン同盟は1813年のライプチヒの戦いにより、ナポレオンの敗退と同時に解体します。

それならば、このライン同盟とは具体的にどのような度目だったのでしょうか。

ここではナポレオンとライン同盟について解説します。

ライン同盟の概要

9度目というのは1806年7月12日、ナポレオン一世が圧力をかけたことによってローマ帝国内の諸侯がフランスと結成した同盟のことです。

ナポレオンを盟主としており、1808年の最大期には5つの大公国、公国、17の侯国、3つの自由都市が参加していました。

同盟といっても、実際はフランスの従属国というようなものであり、この同盟の中ではナポレオン法典が使われていました。

ただし全体の力はほとんどなく、ナポレオンに援助した兵士はとても少なかったと言われています。

そしてこの同盟が出来上がったことにより、神聖ローマ帝国が崩壊しました。

ライプチヒの戦いについて

そんなライン同盟はライプチヒの戦いによってナポレオンが敗退したことにより解体します。

このライプチヒの戦いというのは1813年10月16日から10月19日までに行われたナポレオン戦争最大規模の戦いです。

諸国民の戦いとして呼ばれる場合もあります。

三日間ではありますがこの戦いは非常に激戦であり、そもそも圧倒的に兵隊の数が違ったということもあり、フランス軍は大敗で終わりました。

退却する際も、もともと退却自体は順調でしたが途中で端が壊されてしまい、ここで多くの兵士が戦死しました。

ナポレオン戦争とフランス革命戦争

ナポレオン戦争というものはフランス革命戦争の後で起こったものですが、1803年にアミアンの和訳が破られた時から1815年にナポレオンが完全に敗北するまでの12年間を通して行われた戦争のことを指します。

フランス革命戦争とナポレオン戦争は続けて起こったという見解もありますが、基本的には1803年5月にアミアンの和約が発揮されたことがフランス革命戦争とナポレオン戦争の境目とする考え方が一般的です。

これ以外にも1796年3月の第一イタリア遠征を境目とする見解もありますし、1799年のブリュメールのクーデターを境目とする見解もあります。

まとめ

いかがでしょうか。

そもそもナポレオン戦争という言葉自体がよくわからないという人もいるかもしれません。

これはフランス革命戦争の後に起こった戦争であり、ヨーロッパ国内においても非常に大規模なものとなりました。

しかしそんな繁栄を遂げたナポレオンも最終的には失脚していくことになるのです。

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