世界史の授業などでも勉強するライプツィヒの戦いについて覚えているでしょうか。
これはナポレオン戦争において最大規模の戦いであり、これに敗北したナポレオンは衰退の一途を辿ることになります。
また、これによってライン同盟は解体となりました。
それならば、ライプツィヒの戦いとは一体どのような戦いだったのでしょうか。
ここではナポレオンとライプツィヒの戦いについて解説します。
諸国民戦争とも呼ばれるライプツィヒの戦い
ライプツィヒの戦いは諸国民戦争とも呼ばれています。
ナポレオンの戦争の中でも最大規模と言われており、ドイツ東部のライプツィヒ郊外において行われた戦いです。
ナポレオン軍にはライン同盟軍などを加えて19万人、それに対する連合軍側は25万人でした。
最初はナポレオン軍が攻撃を仕掛けましたが、連合軍がそれを阻止し、ナポレオン軍は休戦を申し出ましたがそれも拒否されてしまいました。
ザクセンが連合軍に寝返ったことにより、ナポレオン軍は巻き返すことができず、負けてしまったのです。
これによってナポレオンはドイツ支配ができなくなりました。
ライプツィヒのシンボル
ドイツのライプツィヒにはこの戦いを記念した諸国民戦争記念碑というものが建てられています。
この記念碑はライプツィヒの戦い100年を記念し、1913年に古戦場の中心部に建てられました。
ヨーロッパ最大の大きさであり、高さは91メートルになります。
屋上からは360度の景色を眺めることができ、その内部には約10メートルの石像のみならず、高さ68メートルのドームや騎士像が立ち並んでいます。
また、記念碑の前には池があり、この意見は戦争のために流された涙を象徴しているのです。
1813年記念館にはライプツィヒの戦いに至る背景などが展示されており、個人の思い出の品々が並べられています。
この戦いによって命を落とした兵士たちの悲しみなどが伝えられているのです。
ナポレオンの失脚
ライプツィヒの戦いに敗北したことによってナポレオンはその地位を失うことになりました。
18104年にはフランスで戦いが起こることとなり、フランスに対して南からはイギリス軍が侵入していきました。
3月31日に連合軍がパリを制圧し、4月6日、ナポレオンはエルバ島に追放されたのです。
その年、9月1日からウィーン会議が開かれました。
ナポレオンはエルバ島を脱出し、復位を成功させますが再度失脚し、セントヘレナ島に流されました。
本来は95日間でしたが、この事の100日天下と呼びます。
まとめ
いかがでしょうか。
ライプツィヒの戦いはナポレオン戦争の中でも最大規模のものとなり、ナポレオン戦争の転換期となりました。
ナポレオンは皇帝にまで上り詰めたというキャリアを持ちますが、最終的にはセントヘレナ島に流され、そこで命を落としたのです。