ナポレオン戦争におけるイギリス軍の活躍について

ナポレオン戦争においてイギリス軍は大きな障害でした。

このころヨーロッパではフランス革命の後、どんどん勢いを強めるフランスに脅威を感じ、ヨーロッパ諸国は対仏大同盟というものを結成していたのです。

しかしフランスはその対仏大同盟を打ち破り、さらに勢力を増していました。

そんなフランスはイギリス軍に苦戦することとなります。

ここではナポレオン戦争におけるイギリス軍について解説まます。

第1回対仏大同盟

1793年から1797年にかけて、イギリスの首相ピットが提唱し、第1回対仏大同盟が出来上がっていました。

当時のイギリスでは産業革命が進行しており、最初フランス革命を傍観していただけでしたが、革命政府がオランダやベルギーに進出することになり、イギリスは警戒心を抱くようになったのです。

イギリスはシャルル16世の処刑を口実にフランス向けの輸出を停止し、それを受けてフランスはイギリスに宣戦布告することとなりました。

1793年、イギリス軍が占領していたツーロン港をフランスが奪回し、イギリス軍はフランスになかなか勝つことができなかったのです。

最終的には1797年、オーストリアがフランスに降伏したことによってこの対仏大同盟が無くなりました。

第2回対仏大同盟

1799年から1802年まで、イギリスを中心として第二回対仏大同盟が結成されました。

フランスはどんどん勢力を拡大していましたが、イギリス軍は海軍を保持しており、制海権を握っていたのです。

それに対してナポレオンが率いるフランス軍はエジプトに遠征し、イギリスとインドの関係を断ち切ろうと考えました。

この辺からフランス革命戦争にナポレオン戦争が関わり始めます。

エジプト遠征においては最初イギリス軍に負かされていたフランスですが、徐々に力を盛り返し、様々な戦闘で勝利を収めました。

1802年にアミアンの和訳が結ばれたことにより、第2回対仏大同盟は解消したのです。

第3回対仏大同盟

ナポレオン戦争も終盤にさしかかり、1805年にはナポレオンが皇帝になりました。

これに対して回対仏大同盟が出来上がります。

イギリスとフランスはアミアンの和訳で対立を棚上げしていましたが、ナポレオンが皇帝になったことによりイギリス軍が危機感を覚え、対フランスの同盟を結成したのです。

プロイセンは第2回対仏大同盟に続き参加しませんでした。

1805年のトラファルガーの海戦やアウステルリッツの三帝会戦を経て、プレスブルク条約が成立し、第3回対仏大同盟は解消したのです。

ナポレオンがトラファルガーで敗れたことにより、イギリス軍が直接フランスに攻撃する事は無くなりました。

まとめ

いかがでしょうか。

ナポレオン戦争はこの後も続き、フランスはヨーロッパを多くの国々に脅威を与えていきます。

その中でイギリス軍は強い力を持っており、フランスもイギリス軍を簡単に倒す事は出来ませんでした。