百日天下と言う言葉を知っているでしょうか。
実際には95日だったと言われていますが、約百日間だったと言うことで百日天下と呼ばれるのです。
ここではナポレオンの百日天下について解説します。
エルバ島への引退
ほぼ負け知らずでヨーロッパのほとんどを支配していたナポレオンは第6回対仏大同盟を率いる軍隊との戦いに敗れました。
和解のためのフォンテーヌブロー条約を結び、ナポレオンは帝位を追われ、エルバ島に向かうこととなったのです。
その間戦いに勝った国々はウィーン会議を開催し、これからどのようにしていこうか話し合いをしていましたが、お互い利害と言うものがあったためなかなか話し合いが進まなかったのです。
その一方でフランスではルイ16世が即位していましたが、フランス国民はその政治に満足していませんでした。
エルバ島からの脱出
そんな安定しない国際情勢を見ていたナポレオンは1815年2月26日、エルバ島を脱出しました。
ナポレオンはルイ18世の軍隊の前に立ちふさがり、「兵士諸君、諸君らの皇帝はここにいる、さあ撃て!」と叫んだと言われています。
ルイ18世は逃亡し、3月20日ナポレオンはパリに向かいました。
そして再び皇帝となったのです。
翌日には組閣を実施し、大人長任命されました。
4月10日には裏切り者の追放が行われ、様々な人物がフランスから追われたのです。
民衆が選べる議員の数を300人から629人に増やし、憲法を修正し、帝国憲法付加法を成立させ、政治にも関与していきました。
セントヘレナ島への追放
しかし、そんなナポレオンの皇帝の生活は長続きはしませんでした。
ウィーン会議が閉幕した後、ヨーロッパ諸国は第7回対仏大同盟を結成しナポレオン打倒を目指して立ち上がりました。
そして6月18日、ナポレオンはワーテルローの戦いに敗北し、皇帝の地位を再度追われることとなったのです。
ナポレオンが皇帝になってからここに至るまでは95日あったと言われています。
大体百日だったと言う事から百日天下と呼ばれているのです。
ナポレオンの皇帝として活躍した期間はそれだけ短いものでした。
まとめ
いかがでしょうか。
ナポレオンの百日天下と言うのはナポレオンが再度皇帝となり、ワーテルローの戦いに敗れるまでの期間のことだったのです。
しかしそれに敗れたことによりナポレオンはセントヘレナ島に流され、そこで命を落としました。
ちなみにナポレオンの死因は胃がんが胃潰瘍かと言われていますが、明確にはされていません。